大阪は夕方から予報どおりに雨が降り出したが、風がぬるんできた。梅も3部咲きといったところか。春の訪れが近いのだろう、日中の日差しが心地よい1日だった。
30才の頃、2年間ほどボストンに住んでいたことがある。
ニューイングランドの冬は長く、10月の黄金色に輝く黄葉の秋はあっという間に過ぎて、5月初めまで長い冬に閉ざされる。11月の暦になると、ある日突然、風が刺すような冷たさに変わり、あわててダウン・コートを取り出す。すると、すぐに第一派のブリザード(雪嵐)がきて、街は白銀に変化する。それから何度もブリザードを繰り返し、半年は雪の中だ。
4月末、ボストン・マラソンの頃、道端にはまだ根雪が残り、応援の人々もダウンに毛糸のマフラーを身に着けている。
それが数日を過ぎると、いっせいに花々が咲き乱れる。白やピンクのハナミズキ、大振りの白木蓮、ケンブリッジのあたりの濃いピンクの八重桜。なによりも若緑が香るようで、風が吹くたび若芽を包んでいた白い苞が歩道を舞い散る。
長い冬の終わりに、春は本当に待ち遠しい。
当時、MITのFMローカル局で、日曜の昼過ぎに、"Musically Speaking"という番組をやっていた。Melany Berzonという女性の低い深みのある声のナレーションが好きで、楽しみだった。ゆったりとした語りで英語がよく聞き取れたせいかもしれない。知的でリベラル、コミュニティの文化を大事にし、折々に女性やマイノリティの集会を知らせたり、アフリカ音楽の特集などもしていた。
3月末の日曜日、春の音楽ばかりを特集した日があった。
番組の終わり、Melanyのナレーションで、「春は必ずや訪れる、誰の元にも・・・」というセリフが印象に残っている。
別れたばかりの人には新しい出会いを、失意の人には再起の道を約束するように、春は必ず訪れる、誰の元にも・・・と。
その時、なぜかりっぱだなと思い、ふとつぶやきそうになりました。
時が来れば、芽をふくらませ、繁茂し、花をさかせ、やがてまた黙した枝木にもどる。この木のように生きられたらと、そう思ったのに違いありません。
それに比べれば、いまのぼくは。
一木一草、一人ひとりの人間も、皆、同じなのかもしれないですね。芽生えて成長し、いずれ枯れ果てていくのですから。
自然の営みのなかでは、同じなんでしょうね。違うことがあるとすれば、人間には、時間の意識があることでしょうか。この時間への意識があるから、小さく思えたり満たされなかったり、とかが起こるのでしょうか。