2006年02月28日

体が思うように動かない



愚痴めいたことは書きたくないのだが、今ひとつ、思うように体が動いてくれない。
3ヶ月近くも病院という環境に居て、寝たり起きたりの生活だったのだから、元に戻るためにはそれと同じくらいの時間がかかるのだろう。
焦る必要はないと分かっているのだが・・・。
楽な方へ楽な方へと体が欲しているようで、まぁ、いいかと引き伸ばしたり後回しにしたりすることが多い。
気力の低下もはなはだしい。

筋力が落ちているから疲れやすいのもある。退院直後から比べれば、ずいぶん、さっさと歩けるようになったが、それでも、じっと座っていたり横になっている方が楽で、つい、そっちを選んでしまう。
気力の低下は、いかんともしがたい。いろいろ時間切れの事柄が山のようにあるのに、考えないように回避している。心理的なエネルギーのレベルが低下したままだ。
困ったことだ。
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2006年02月23日

Musically Speaking 春の訪れ



大阪は夕方から予報どおりに雨が降り出したが、風がぬるんできた。梅も3部咲きといったところか。春の訪れが近いのだろう、日中の日差しが心地よい1日だった。

30才の頃、2年間ほどボストンに住んでいたことがある。
ニューイングランドの冬は長く、10月の黄金色に輝く黄葉の秋はあっという間に過ぎて、5月初めまで長い冬に閉ざされる。11月の暦になると、ある日突然、風が刺すような冷たさに変わり、あわててダウン・コートを取り出す。すると、すぐに第一派のブリザード(雪嵐)がきて、街は白銀に変化する。それから何度もブリザードを繰り返し、半年は雪の中だ。
4月末、ボストン・マラソンの頃、道端にはまだ根雪が残り、応援の人々もダウンに毛糸のマフラーを身に着けている。
それが数日を過ぎると、いっせいに花々が咲き乱れる。白やピンクのハナミズキ、大振りの白木蓮、ケンブリッジのあたりの濃いピンクの八重桜。なによりも若緑が香るようで、風が吹くたび若芽を包んでいた白い苞が歩道を舞い散る。

長い冬の終わりに、春は本当に待ち遠しい。
当時、MITのFMローカル局で、日曜の昼過ぎに、"Musically Speaking"という番組をやっていた。Melany Berzonという女性の低い深みのある声のナレーションが好きで、楽しみだった。ゆったりとした語りで英語がよく聞き取れたせいかもしれない。知的でリベラル、コミュニティの文化を大事にし、折々に女性やマイノリティの集会を知らせたり、アフリカ音楽の特集などもしていた。

3月末の日曜日、春の音楽ばかりを特集した日があった。
番組の終わり、Melanyのナレーションで、「春は必ずや訪れる、誰の元にも・・・」というセリフが印象に残っている。
別れたばかりの人には新しい出会いを、失意の人には再起の道を約束するように、春は必ず訪れる、誰の元にも・・・と。
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2006年02月21日

気の滅入る日



今日は朝から冷たい雨降り、寒い1日だった。
そんな日に気の滅入るようなことは考えたくないが、それでも前の職場の同僚が入院したという知らせには、彼女のことを考えざるを得なかった。私より一回り以上は若いだろうか、卵巣がんの腹腔内破裂で緊急手術、目下、抗がん剤治療の開始を待っているところとか。
痛ましいことだ。どうして、そんなことがあちこちで起こるのだろう。

自分の病気とともに、知り合いにもかなりの人数の人たちが「がん」という病に侵されていることを知った。ほどほどの距離のある仕事関係なので、直接に連絡を取り合うわけではない。しかし、折にふれ、その人たちのことが思い出される、今、どうしているのだろう・・・と。

同い年で仕事の分野も共通していた友人は、2003年6月にある研究会で久しぶりに会ったとき、数ヶ月、乳がんの治療を受けていたことを告白した。病気の発見、仕事の多忙でしばらく治療を引き伸ばしていたこと、手術と放射線/化学療法、すっかり髪が抜けてかつらになったこと、などなど。元気な頃と変わらないふっくらした体型で、とてもそんな修羅を潜り抜けてきたとは思えなかった。いつも忙しげで、私の職場で開いていた集まりにも、富山から駆けつけては、また別の会合へと途中で退席するのが常だった。6月のその折にも、ゆっくりお茶をする時間もなく、彼女はまた別の集まりに去っていった。
それから1年近くして、間接的にだが、その年の暮れ近くに亡くなったことを知った。6月にはあんなに元気そうだったのに・・・。

職場は相変わらず忙しい。片付かない仕事が、文字通り雪だるま状態に積み重なり、どんどん前のことを忘れていく。だから、いつも、こんなことばかりを考えているわけではない。けれど、元気な頃は、友人知人の病気の知らせに気の毒にと思うことはあっても、今のような切実感が伴わなかった。今は、やはり我がことだ、人ごとではすまされない。

回復が順調でそれなりに活躍している人は、余り病気のことは語りたがらないのだろう。どうしても悲しい知らせばかりが耳につく。職場には、職場の流れと勢いがあり、折々に耳にするそうした知らせに立ち止まっていられないところもある。
しかし、それにしても気の滅入る話だ。
どんな思いをして、1日1日を抗がん剤治療の開始を待ちわびているか、十分に想像がつくのだ。
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2006年02月19日

老父のこと



今日も1日、何もしなかった。今週こそは部屋を片付け、二三、これ以上は引き伸ばせない仕事を片付けようと思っていたのだが・・・。入院中の見舞いにiPodーnanoをもらい、ダウンロードをしようと思いながらそのままになっていた。結局、あれこれ試しながら、ネット購入まではせず、手持ちのCDから300曲近くを読み込ませた。そんなことで午後中かかってしまた。
ご飯を炊き、朝昼と夕食の2回の食事、りんごのおやつ、夜TVを見ながらうたた寝、そして新聞読み。

来週の土・日は東京で大事な研究会がある。実家にも昨年来、数ヶ月帰ってなく、暖かくなってきたので帰ろうかと思っている。
病気のことは、なんて話そうか? まだ本当のことは話していない。

入院前日に、しばらく家を空けるので、老父には外国に行っていると電話を入れた。数週間の外国出張はこれまでもたまにあったので、別段おかしなことではなかった。
家族に内緒にしていて一番困ったのは、手術のときの同意書だった。検査・処置には、必ず説明の後に、本人の同意書署名がいる。手術だけは、本人以外に家族の同意も必要だった。また、術中にもしものことがあるかもしれないので誰かに待機していてほしいとも言われた。
退院して元気な顔を見せられるようになるまでは、入院・手術のこと話せないと思っていた。考慮の末、保証人の署名は職場の上司に頼み、術中の待機と術直後の説明は同僚に頼んだ。

入院は思いのほか長引き、正月休みに帰れそうもなかったので、12月上旬に電話を入れた。韓国中国の出張から戻って体調を崩し、急に入院となり手術を済ませた、と。心配して大阪に来ると言い出しかねないので、入院先は伏せたままにしていた。
その2-3日後だろうか、老父が病室に現われたのでびっくりした。私が何も話さなかったので、職場の上司にいろいろ問い合わせたらしい。
幸い、点滴は続いていたが、嘔吐がおさまり体力も回復していたので、空元気ではあったが普段どおりの私で会うことができた。点滴棒を引きずりながら病室内もうろうろ歩き回って見せた。そんな姿に安心したようだ。

癌だとは話せなかった。慢性膵炎で、胃を少しと十二指腸とともに膵臓の一部を切り取る大きな手術だったが、回復は順調、心配は不要と伝えた。
もともと、家族にはあまり自分のことは語らない方だ。最小限のことしか伝えない。だから逆に心配をかけるのだろうな・・・とは思うのだが。

その後、退院までに何回か病室に電話があった。こちらが、そろそろ電話を入れておかないと・・・、と思うまもなく実家から先に電話が入る。
私の病状説明では納得いかないのか、あるいは昔かたぎの律儀さからか、しきりに主治医に会いたがっていた。主治医は多忙でこちらの都合だけで会えないのだから、と嘘を言った。
職場の方にも挨拶に行かなくていいのだろうか・・・と気にしていた。

「そんなこと言ったって、お前、みなしごじゃないんだから・・・」
親が挨拶に行かなかったら、おかしいじゃないか、というのだ。
”みなしご”という言葉に、東京から大阪に移った娘への距離感が伝わってきた。

やはり、今度の週末には東京に帰ろう。
いずれは再発のこともあるだろうし、元気になったら本当のことを話そうと思っていたが、病名は伝えられない。しばらく、今のままでいくしかない。
posted by 萩 at 03:04| 大阪 ????| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

診察日



金曜日は診察・治療の日。月曜あたりから足のむくみが気になっていた。すねや足の甲を親指で押すと、低反発マットレスのように、へこんだままなかなか戻らない。
A先生にそのことを話すと、アルブミン値が低め(基準が3.5-5.0のところ3.3〜3.1)なので、どうしてもむくみが出るらしい。

利尿剤をとれば一発でむくみは取れますよ、とのこと。それで、ゴレイ散を2週間分追加してもらった。漢方の粉薬で嫌いな薬なのだが、入院中に飲んでいて馴染みがあった。
タンパク質が足りないんでしょうか?と聞くと、「いや、それはあまり関係ない」とも。
AST、ALTやALPが高めで(胆管炎)、それと関係しているらしい。CRP(炎症反応)は基準値内なので、それほどひどいわけではない。

「どうして胆管炎を起こすのでしょう?」と聞いてみた。
A先生いわく。膵臓(胆管)を空腸と吻合してあるのだが、本来、腸内容が胆管に逆流することはないのだが、術後1年くらいはこの逆流が生じることがあり、それで胆管炎がよく起こるのだと。「1年すると、起こらなくなりますよ。」
「食事量を控えた方がいいのでしょうか?」とたずねると、笑いながら、「いや、その必要はない、好きなものをどんどん食べてください。」と。

この1週間、胆管炎というのが、多少、気になっていた。A先生の話で、なるほど、と思った。こうして説明されると、すっきりして安心する。
術後の嘔吐も、胃と空腸の吻合部に浮腫が起こっているので、「3週間経つと不思議と消えますよ」の一言に、安心したものだ。本当にピタリと3週過ぎには嘔吐がおさまった。

こうしたことは、医学書には書いてない。
自分の体の変化から、少しずつ学んでいくことになる。それにしても、A先生はクリアだ。
ほんの数分の診察時間で、1週間の調子を伝え、おなかを診てもらい、検査データをながめ、いつも少しだけ余談をし(今回は大学病院の法人化について)、そして点滴にはいる。

今週は、白血球が2900に落ちていたが、ジェムザール実施。赤血球は変わらず。PLーC(血小板、基準18.0-34.0)は、前回の16.3と19.9から36.6に回復。人間の体は微妙だ。

3月末に1週間ほど、タイ・バンコクに出張予定なのだが、そのことは切り出せなかった。
1月5日の退院のときに、4月中旬に中国に行く予定があるのだが行っても大丈夫だろうか?とたずねたら、A先生は笑いながら、「ああ、いいですよ、まぁ調子を見ながら、直前になってキャンセルしてもいいし・・・」と。
来週、22日に久しぶりのCT検査があるので、24日の診察のときに聞いておこう。

私は、これでも診察のときは多少緊張しているらしく、点滴に入る前の血圧測定は、いつも普段より10くらい上がっている。それでも、毎週の診察は心の拠りどころだ。
posted by 萩 at 01:48| 大阪 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2006年02月14日

ブログって面白い!(またも鰻の話)



野田洋子さんという方が、何日も前に書いた記事にコメントを残してくださった。
東京に来たら尾花という鰻やに行きましょう」と。
早速、検索して見た。美味しそうな記事が沢山あって、実はこれを書き出す前に、もうすっかり空腹状態。帰宅が遅く深夜でもあるので、りんご1個の夜食でなんとかしのいでいる。

http://www.tocera-sky.co.jp/dt_obana.htm リンクの張り方は今度確認しておくが、ここに「尾花」の紹介がある。
「断腸亭料理日記」というのにも尾花の記事があって、鰻好きがよく伝わる。
トラックバックなることには、この次、挑戦。)

大学時代の同級生に野田洋子さんという方がいたが、10数年来、音信不通だ。よもやこのページのことは知る由もなく、同姓同名の方だろう。
私は、大阪に来る前、8年間ほど入谷に住んでいた。尾花のある南千住はすぐ鼻の先だ。知らなかったなぁ、そんな有名な鰻やが近くにあったとは。
ブログって、面白いと思った。

25-26日は東京に用事がある。どうしようか迷っていたが、老父のことも気がかりで、ちょうど入谷にも用事があることだし、尾花にも行きたいので、帰ることに決めた。美味しい鰻重に、うざくを食べてこよう。

入谷の交差点を、少し鶯谷寄りに行ったところに(鬼子母神の向かいあたりか)、小さな鰻やがある。2間ほどの間口で、中年の夫婦ものが、鰻を焼いては売っているだけの店だ。2階が住まいなのだろう。たいていは亭主が一人で店に立っている。夕方7時くらいには売り切れてしまう。運よく帰りがけに店が開いていれば、鰻弁当を買って帰った。奈良漬が3切れ付いた、なんの変哲もない鰻弁当なのだが、炭火焼が美味しく、ありつけると妙に嬉しかった。
私は、いつも、この夫婦がワケありに思えてならなかった。無口だが気立てのよさそうな亭主と、いかにも夫婦仲のよさそうな感じが、身動きも取れない小さな店先なのに、どことなく幸せそうだった。二人、忍んで、小さな店を持ったというのは考えすぎだったろうか。
軒先に置いてある木のベンチに腰かけ鰻の焼けるのを待ちながら、手入れの行き届いた鉢植えを目にしては、いい夫婦だなと思っていた。

小さな鰻やといえば、思い出すのはとげ抜き地蔵の通りにある「にしむら」。母の実家が巣鴨にあり、巣鴨に行くたびに、祖母が鰻を食べに連れて行ってくれた。喘息持ちだった祖母は、精をつけるのと目にいいからと、帰りに八目鰻を土産にしてもらっていた。うな丼は好物だったが、八目鰻に肝焼きは、苦くて子供の口にはとうてい合わなかった。
もう店は残っていないだろう・・・と、先ほど検索してみたら、なんといまだに健在だ。
私が子供の頃は、5-6人も入れば満席になる小さな店だった。今でもそうらしい。

http://www.yatumeya.com 「八ツ目や にしむら」というHPまで出ていた。

今夜は、尾花に始まり、あちこち鰻やの検索をして、店先の匂いと共に遠い思い出がよみがえってきた。あーあ、おなかがすいた。
アクセス解析」なるサービスがこのブログについていて、見ず知らずの方が毎日、何人訪れるか、時間ごとの訪問数なども分かるようになっている。
ブログというのは、始めてみると面白いものだと思った。
posted by 萩 at 02:06| 大阪 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2006年02月13日

切り取った臓器



私は、5cm大のふくらみのある腫瘍組織というのは、黒いピンポン玉のようなものかと想像していた。だからメスですっと切り取れば、悪いところはなくなるものだと思っていた。多少、目に見えないがん細胞が血管壁や後腹膜に残るにしてもだ。

ところが切り取った臓器の写真をみて、そんな単純なものでないことが分かった。

臓器.JPG

ブログは初めてで、画像のアップがサイズ設定がまずくて今ひとつなのだが、見れるだろうか。退院前日に、B先生に頼んで切り取った臓器の写真をもらった。

左上の写真が、切り取った全体。左に突き出ているのが胆嚢、そして胃の下部1/3、真ん中の膨らんでいるのが十二指腸とそれに接した膵頭部、下にさらに十二指腸が続く。これを生で見たのは3人なのだが(術直後にA先生より説明)、その内1人は、「すごく長かった」とのこと。
右上の写真は、切り開いたところ。黒く見えるのが癌組織。
左下は、癌組織で胆管に狭窄が生じているところ。これで私は黄疸がひどかったのだ。

手術でがん組織を切り取るといっても、素人が想像していたような、はっきりした輪郭のあるできものを切り取るのとは大違いなのだ。
だから、取り残した組織があってもなんら不思議ではなく、それを体内に抱えながら、なんとかジェムザールの効果を期待して、暴発しないように見ていかなければならない。
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軽い胆管炎?検査結果にガッカリ



10日金曜日はジェムザールの3クールめに入った。800mgを30分かけて点滴、それに制吐剤セロトンが入る。
診察のときに、ここ数日間、下痢や軟便の回数が増えていると話したら、2月1日の採血結果を見ながら、軽い胆管炎を起こしている・・・とのA先生の話。ちょっとショックだった。

2月1日の採血では、腫瘍マーカのCEAとCA19-9も検査した。
なんと、12月15日では、CEA(2.4)とCA19-9(227)だったのが、それぞれ3.6と926に増えていた。CEAの基準値は6.5以下、CA19-9は37以下なのに・・・。
A先生は、AST、ALT、ALPが前回1月11日より上がっているので、それに反応しているのだろうから心配しないように、とのこと。腫瘍マーカの値は、いろいろな影響を受けるらしい。

それにしても、肝機能系、胆管系の酵素の値が高くなるというのは、いったいどういうことなのだろう。手術前からその後の手元にある限りの検査データをエクセルに入力してみたが、今ひとつよく分からない。
2月1日の週は、たしか職場には月・水と2日しか出なかった。なんとなく気分的にだれてきているのかと思っていたが、疲れも出ていたのだろうか?
こうした微妙なところが、心理的なものかそれとも身体的な反応なのか、つかみずらい。

白血球は3100、赤血球は390万、血小板は19.9万と、いずれも低めだが化学療法はOKとのことで、一安心だ。
2月22日には、久しぶりにCT検査がある。術前検査以来だ。
術後約3ヶ月経つが、腹壁はまだ張った感じが残っている。表皮の縫合はきれいに薄くなりつつあるが、筋膜を縫い合わせた縫い代は相変わらずゴロゴロと触れる。
体重は、入院時が58.2kg、術直前には55kg、退院時52kg、現在は52.5ー53.0kgと、少し増えつつあるだろうか。

自分の体の調子に敏感にならなければと思うのだが、以外にむつかしい。

土曜・日曜は、何もできない。10時頃にゆっくり起きて、朝刊を読みながら朝食。玄米の雑炊や、ご飯に漬物・煮物など。たいがい、ぐずぐずして、朝・昼兼用の食事になる。しばらくTVを見たりぼんやりしていると、眠くなってきてソファで昼寝をしてしまう。夕方起きて、夕食の支度、夕食と片付け、雑誌新聞に目を通しTVを見るともなしに見ていると、夜10時過ぎ。
退院後、週末はずっとこのパタンだ。外出もせず、なにもしないで1日が過ぎていく。
一番困るのは、掃除・片付けができないことだ。
新聞の束はたまり、ゴミだしの袋もたまり、フローリングの床には綿ボコリがたまっている。テーブルの上はゴチャゴチャ。自宅も職場のオフィスも、片付けができないでいる。
今週こそは・・・と思いつつ、倦怠感がある。
心理的な怠惰なのか、体が休息を必要としているのか、よく分からない。

気の持ちよう・・・、がんばらなくては・・・と思いつつ、体内に爆弾を抱えている怖さもある。
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2006年02月08日

おなかの具合と会食



今夜は、韓国側4名、日本側4名の計8名との会食があった。相互の交流を活発にするには、まずは一人ひとりが親しくなることが大事だ。昨年10月に韓国、全羅南道にある順天を訪れ、今回は3月に大阪で開催予定の国際セミナーの準備の一環として、あちらからお見えになった。

今夜の会食については、招待される側でもあり、不安があった。
まだ胃腸の働きが不十分で、下痢や軟便を繰り返している。手術で消化器の神経叢をいじっているので下痢をしやすいのと、抗がん剤が腸に反応して下痢をすることがある。数時間の空腹の後に食事をすると、反応で腸がぜん動する。朝が一番顕著で、食後、しばらくするとおなかがしぶり、トイレに数回駆け込むことになる。12月頃は、このしぶり感がひどくて小一時間は辛かった。終わるとホッとして疲れた。退院してからは、朝は、ずいぶん楽になった。それでも、外食のときは、いつもおなかの調子は大丈夫かな・・・と心配しながら、食事することになる。

一人のときはともかく、お客さんと一緒のときはなおさらだ。
1月中旬、職場の上司・同僚と5名でランチをしたのが、最初の会食だった。具沢山のスープやサラダ、大ぶりの和風ハンバーグがメニューで、楽しく2時間を過ごすことができた。退院して間もなかったので、こうして普通に会食できたのは自分でも驚きだった。

今夜は6時半に始まり10時にお開きの長丁場、もちろんビールは口にしなかったが、どの料理もきれいに平らげ、会話もはずんだ。さすがに終わりの方では、おなかがグルグルしてきたが、帰宅するまで大丈夫だった。本来、あまり社交的ではないのだが、外国の方が一緒のときは、私はとてもサービス精神を発揮する。話題の穂を次いだり、出されたものは、外国の珍しいものでも美味しそうになんでもほおばる。

場所は難波の裏手にある小料理屋、大阪らしいボリューム満点の和食コースで、まぁ気の張る席ではあったが、健康なときのように振舞えたのは、何よりだった。
こうして、少しずつ自信がついていくのだろう。

料理は、盃に少量のみかん酒で始まり、きな粉ゼリーの甘味まで13種。本当に、大阪はどこで何を食べても盛りだくさん。これが京都なら、見栄えはよくてもほんのちょっぴりで、男性陣には物足りないだろう。印象に残った料理は、「黒米飯蒸し(わかさぎの佃煮一切れ)」。黒米ともち米を合わせて蒸した黒い赤飯といえばいいだろうか、珍しかったし美味しかった。

お土産に、順天の学生さんたちが作ったという唐辛子味噌コチジャン1kgと、コチジャンの梅漬け500gをいただく。味見が楽しみだ。

府内の在日韓国人は、その多くが全羅南道の出身だと言う。昔の百済のあたりだ。6-7世紀の頃から百済と畿内は交流が盛んだったらしい。戦前は、「きみがよ船」という哀しい名前の船で下関を通って大阪湾までたどりついたとのこと。
これからは、歴史を大事にしながら、新たな交流を作っていかなくては。

ときに大食らいをする私を支えてくれる飲み薬。
毎食後 べりチームカプセル(消化酵素)+ ガスモチン錠5mg(胃腸の整え)
それに、朝1回 ワーファリン錠1mg(血液凝固を抑え血栓予防)。

今日の食事: 朝、丸パン1/2個にマーマレード、玉葱たっぷりのコーンスープ
       昼、アンパン1個とジャスミン茶
       夜、会食
(冷蔵庫には、玄米飯、きのこ沢山の五目御飯、金時人参と油揚げの煮物など、日曜に作ったものが残っている。家でちゃんとした食事もしている。)

睡眠:12時前の就寝はまるで駄目。一度として実現せず(家にいても寝るのは深夜か朝方)。

起床時の体温:今朝は36度5分、大体この前後。体温はさほど低くない。それでも、寒くて、外気の寒さが身にこたえ、いつもオーバーを手離せない。 
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2006年02月06日

仕事のこと



今朝は、はらはらと小雪の舞う寒さだった。薄めのブラックコーヒーマーマレードつき丸パン半個の朝食を摂りながら、つい考え事にふけってしまい、家を出たのは雪も止んだ昼前だった。1時の会議に少し遅刻した。

自分にとって仕事はどんな意味を持つのだろうと考えることがある。
金・土・日と家で過ごしていると、どうしても病気のことばかり考えてしまい、すっかり、がん患者アイデンティティが定着している。ネットで他の方たちの闘病記を読んでは、これから自分はどんな経過をたどるのだろうと考える。

再発や転移の不安があるのだ。たまに5年、6年と過ごされている方たちの記録を見ても、決して生易しいことではなく、いくつもの山を越えられての5年、6年だ。

仕事への気力というか、意欲も低下する。どなたかが書かれていたが、退院後の方が不安が強まるともあった。「不確かさ(uncertainty)」が生活の隅々を支配している。

職場に出て、目前のルティーンの追われる仕事以外に、いくつか連絡をとらなければならないことがある。東京にも二三の仕事がある。自分から一歩動き出さなければならないのだが、どうにも億劫でならない。気力がわいてこない。
今朝、コーヒーがまずいと感じながら、寝床でぐずぐずしている臆病者の平八(藤沢周平「早春の光」)が自分に重なった。

仕事は、独身の私にとっては何よりも経済的な基盤だ。決して贅沢はしないが、そこそこ満足のいく生活を支えてくれる。暮らし向きに不安がないのはありがたい。
地下鉄、電車、バスを乗り継ぎ職場に出ることは、健康なとき以上に今の私にとっては大事なのかもしれない。職場に出ることで、いっときがん患者である自分を忘れる。

それでもギャップがあるのだ。体力の衰え、無理がきかない、集中力にも欠ける。元気なときは、火事場の馬鹿力とでもいうのか、追い詰められて瞬発力で片付けることができた。持続力もあった。もう、そういうエネルギーはない。

何年も前に、喘息をはじめとする慢性疾患を病む方たちの手記を読んだ。早め早めの準備や、自分の体調を見ながらの調整・スケジュールづくり、病気とうまく付き合いながらの生活のコツがあった。今の私にも、そういうことが必要なのだ。

早くギャップが埋まってくれるといい。
仕事をする自分というのは、まぎれもない私なのであって、がん患者である自分と乖離しているわけではないのだから。
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病室の風景



広さは個室A(31,500円)ですが、窓側に建物があるので個室Bの値段。
病コ1.JPG

応接セットがあり、ここで仕事をしていました。
病コ2.JPG

窓辺にクリスマスの飾り
クリスマス・リース、Mさんと奥様から、ありがとうございました。
窓辺.JPG

クリスマス・イヴに届いた花かご(I先生、ありがとうございました。)
花2trim.JPG

花かごは、しおれた後も元気な物だけ残して退院まで和ませてくれました。
膿盆が花器に変身。
カードと花.JPG
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2006年02月05日

入院費総額



入院中、TVを見ていて嫌だったのがやたらと「がん保険」のコマーシャルが多かったことだ。
私は、よもや自分がこんなことになるとは思っていなかった。がん保険どころか、職場で自動的に入る保険以外は、何も入っていない。3人に1人ががんになる時代と言われれば、確かにがん保険も必要なのかもしれない。

今回、78日間の入院で要した費用を、病院から受け取った請求書兼領収書から整理して見た。
実のところ、明細はよく分からない。
共済本人で、負担割合は30%。11月11-15日の5日間(外科病棟、術前)のみ6人部屋で、後は、11月17-21日(外科病棟、術後の個室、たしか1万円ちょっと)、それ以外の期間は混合の個室だけのフロアにいた(室料1日21,000円)。

10月20日ー10月31日 計432,310円
入院料(119,457円) 手術料等(45,906円) 検査料(438円) レントゲン等(5,460円)食事(8,580円) 室料差額(252,000円) 私用電話(470円)

11月1日ー11月30日 計1138,650円
入院料(152,949円) 投薬料(5,586円) 注射料(48,807円) 処置料(3,363円) 
手術料等(419,151円) 検査料(18,288円) レントゲン等(17,772円)その他(1,650円)
食事(17,160円) 室料(451,500円) 電話(320円) 証明書(2,100円) 


12月1日ー12月31日 計891,820円
入院料(177,243円) 投薬料(4,020円) 注射料(16,179円) 処置料(849円) 
検査料(7,830円) レントゲン等(11,211円) 食事(19,500円) 室料(651,000円)
電話(1,890円) 証明書(2,100円)

1月1日ー1月5日 計144,600円
入院料(34,965円) 投薬料(630円) 食事(3,900円) 室料(105,000円) 電話(100円)

総額 2607,380円 (内室料差額 1459,500円) 医療費だけでみると114万円。

手術を要する入院では、やはり300万円くらいは用意しておく必要がある。
私は、今回の費用については、独身でそれなりに老後の貯えもしているので、感覚としてはリーズナブルだと思っている。個室差額も、部屋の広さや設備からするととても妥当な額だった。
但し、これが10数回も続いたり、他の患者のように1回の入院が数ヶ月(長い方は半年くらい入院という方もいたようだ)も続くと、そんな呑気なことも言っていられなくなる。

最後に恥ずかしながら白状すれば、退院後、東京の老父が2/3相当の金額を送金してくれた。専門の仕事を持ち経済的にはなんの苦労もない身なのに、50台なかばの娘の身を案じてのことだ。強がりを言いながらも、ありがたく受け取った。
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2006年02月03日

大阪弁が移った



大阪に暮らして、そろそろ2年。
一番の壁は、なんといっても大阪弁で、これが東京生まれの東京育ちにはよそ者意識につながる。私は、本所の下町っこだ、切れのいいのが身上ときている。そうなんやなぁ、とかの、なぁなぁ言葉、いわはるしぃ、などの"はる"のついた敬語、語尾ののばしはまどろっこしい。

それでも、入院中に大阪言葉が移ってきた。
B先生の診察が終わり、腹帯は自分で締めようとすると、「いけますか?」
「はい、大丈夫、いけます、いけます。」(と、自分であわてて腹帯をしめる。)
「先生、最近、調子いいですよ。」 「ほんまですか?」 「ほんまですよ。」

幼子が、母親から口移しに言葉を覚えるように、病院では主治医やナースが頼りになる存在。B先生や、受け持ちのKナースから、自然と移ってきた。ここでなら、大阪弁が移ってもかまわないと思った。
posted by 萩 at 14:50| 大阪 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

東京vs大阪 どっち?



今日は朝から晩まで大事なプログラムが入っているのだが、サボってしまった。若い人たちに任せておこうと自分への言い訳。今週はダラダラな1週間で、月・水と2日しか職場に出なかった。免疫の本を読んでいると、「無理するな」「人に任せろ」なんてことが沢山書いてあって怠け心には恰好な言い訳になる。

1月5日に退院、ちょうど1ヶ月たち、職場復帰に向けての気の張りがゆるんできたのだろう。体調面はなんら支障はないのだが、心理的に振り返りを必要としている。

それで、今日は「食べもん」の話。
藤沢周平の小説で思い出したのだが、美味しそうな食べ物があちこちに出てくる。「海鳴り」では、人妻おこうとの逢瀬で、小鯛や鮎の塩焼きをむしって食べる場面。あさりや蟹の味噌汁。彫師伊之助捕物覚えでは、伊之助が立ち寄る一膳飯屋での数々、焼いた小がれい、山牛蒡の味噌漬け、山形を舞台にした物語では赤蕪の漬物など。

赤蕪の酢漬けは、退院後、早速デパ地下で買ってきた。京都の漬物屋のより、やはり山形のものが美味しい。

入院中は、手術前は胆汁チューブで、術後は胃を1/3切っていたので、食欲がなかった。それに五分がゆ・すい臓食は同じものの繰り返しでまずかった。ラコール(栄養補助ドリンク)よりはましだと、必死で副食だけは食べるようにしていたが。

私の人生で、もう食べる楽しみはなくなったと思っていた。そんなとき、よく、東京の食べ物が思い出された。

好物は、うなぎの蒲焼。元気がないとき、疲れたときはうな重に限る。「宮川」のうな重は、美味しかった。大阪のは蒸していないのでとろりとした味わいに欠けるのと、ご飯と2段重ねで、全体にご飯が多くてご飯の上にちょこっとうなぎが乗っているかんじ。大阪のうな丼・うな重には、いつもがっかりさせられる。

「寿司岩」の寿司。2年の大阪暮らしで、まだ握りを食べていない。どうせがっかりするから。東京から来た同僚が、帰るたびに、築地で握りを食べてくると言っていた。握りもいいが、私は夜の会議でいつも取っていた寿司岩の上ちらし(2000円)がお気に入りだ。ほたてやマグロのいきのいいネタが寿司おけからはみ出さんばかりにのっている。ご飯少な目もいい。外からの参加者も、このちらしが楽しみで来るんですよ、と言っていた。なんといっても、寿司飯に酢がきちんと利いているのがいい。大阪の寿司は、酢が利いてなくてぼんやりした味。

職場の近くにあった小さな店の、江戸前あなごの天丼。あなごが一尾どーんとのっている。1000カロリー近くはあると、あまり食べないようにしていたが、ごま油で揚げたさくさくの衣に甘辛いタレ、とろとろの白身、美味しかった。

天麩羅自体は余り好きではないが、天ぷらそばは別格。本願寺前の(美容院シュブーの向かい)、天ぷらそばは、大きな海老が2匹、汁はかつお出しでやや辛め、それが海老天やそばとよく合う。けれど、食後はのどが渇く。萩山のK国立病院の向かいにある蕎麦屋の天麩羅そばは、特別大きな海老が2匹、わざわざ料理前に見せてくれる。こちらは信州そばが売りで、汁はやや甘め、ボリューム満点、食後は仕事にならないくらい。

カレーは、新宿中村屋のシーフード・カリー。京王線沿線での用事があり、大阪に日帰りで戻るときの夕食の定番だ。食後のインド・ティーは、カルダモンなどスパイスの効いた甘いミルクティーで、これがないとカレーの締めにならない。

パスタは、二番目に美味しいのが「スペッツィエ」のシーフードトマト味、これにタバスコをたっぷりかける。夜10時前に帰れるときはよく立ち寄った。
一番は、自分で作るスパゲッティ。鷹の爪・にんにくと玉葱1個のみじん切りをオリーブオイルでよくいため、トマトホール缶(400g)2缶を加えてつぶし、ぐつぐつと煮込む。アルデンテに茹でたフェデリーニ(4-5分でゆだる細め)にかけるだけの単純なもの。イタリアに数年住んでいた友人に教わったのだが、スパゲティはこれが一番で、外で食べると大体、がっかりする。退院して、先日、早速作って食べたが、やはり一番だった。

大阪で美味しいものはなんだろう?
残念ながら、これがないのだ。お好み焼き・たこ焼き、一応食べたが、とくにどうということなし。これまで外食が多かったのに、忘れがたい味などまったく思い当たらない。
唯一、例外は、泉州水茄子の漬物。
なすの漬物が1個500-600円と高いのだが、これは美味しい。5月に入ると、忘れずに東京の家族や友人に送る。

それ以外に何があるだろう?(大阪の友人・同僚、ごめんなさい。)

ともあれ、退院して、こうしたものが、また美味しく食べられるようになった。胃もだいぶ大きくなってきたし。ありがたいことだ。好物だったコーヒーはまだこわくて飲んでいない。そろそろ、コーヒーが飲みたい。
posted by 萩 at 14:12| 大阪 ????| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2006年02月02日

どういう人生を送りたいか



しかし、↑そんなことを問われたところで、どう答えたらいいのだろう?

特別なことは何もない。平凡に、淡々と、自分らしく、今の状態を続けられれば、それが一番いい。それ以外に何を望むというのだろう。

入院中、私は10数冊の小説を読んだ。大半が、いつか読みたいと思っていた藤沢周平作品だった。手術前に読んだ1冊、「三屋清左衛門残日録」のなかの、最後の1編「早春の光」の一節より(p.436)。

--そうか、平八。
いよいよ歩く習練をはじめたか、と清左衛門は思った。
人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終えればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ、そのことを平八に教えてもらったと清左衛門は思っていた。

どういう人生を送りたいか。上記のように生きられたら、それにつきることはない。
posted by 萩 at 23:39| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

手術の選択



このブログを4-5人に伝えたところ、ある人から手術の選択をどのように判断したのかと問われた。
11月2日の病状説明の場は、ところどころ鮮明に記憶している。細かい内容は忘れたが、自分がどのようにして手術を選んだのか思い出してみよう。

一つには、事前に読んだ医学書のコピーから、治療の第一選択が手術(膵切除)であること、手術と化学療法では生命予後に開きがあること(後者では1年以内)、手術の場合もstageIIIやIVでは成績が改善していないこと、10年前の古いデータだが症例数の多いIVaで1年生存率27%、5年で数%・・・と、冷や汗ものの情報がしっかりインプットされていた。

A先生は外科医にもかかわらず、手術の困難さと根治性の難しさ(門脈浸潤あり、後腹膜への拡がり?)を強調していた。その場の印象では、暗に、化学療法を薦めているのではないかとさえ思ったほどだ。
手術ではどうしてもCa細胞が残る、手術することで肝転移の可能性が高まる、門脈の神経叢をいじるので下痢・便秘など術後QOLは低下したまま、膵臓断端と空腸吻合の難しさetc.
それに対して、ジェムスタビン(化学療法)はまだ3-4年の成績だが、今のQOLを維持してしばらく持たせることができる。選択は、私がどういう人生を送りたいか、だとも。
「自己決定」ということは分かっていたが、苛酷なことだった。

「先生が私の立場だったらどちらを選びますか?」
「さぁ、どうするかなぁ・・・」、当たり前だが、答えなかった。

いろいろなことが頭をよぎり、何か独り言のように自分の思いを口にしていた。QOLを維持して1年以内、手術と術後化学療法でQOLの低いまま2-3年、どちらを選ぶか?
生命を縮めてまで今成し遂げなければならない大事な仕事など私にはない。秤はがたんと前者に傾き、急に仕事などどうでもよくなった。家族のことも話していた。子供のいない気楽な独身、取り残される老父への思いなど。

「私のこれまでの性格からすると、アグレッシブに立ち向かうのが私らしいので、手術でお願いします。」
傍らで聞いていたB先生が、迷いのない答えに、「アッ」と声を出した。

セカンドオピニオンは必要なかった。A先生は府内の2-3箇所を挙げられていたが、自分が決断するのは同じことだった。それに、2名の主治医を信頼していた。
1時間ほどだったろうか、終わりの方で、A先生は、私の選択を支持するかのように言われた。「化学療法は宝くじと同じ、効く人には効くが、当たる確率は低く、損する場合が多い。」

その場で結論を出した。もう一晩ゆっくり考えてみようとは思ったが、迷いは生じなかった。

結局、どのように選択したかというと、今までの自分らしさ、ということになろうか。
posted by 萩 at 23:04| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

ライフスタイルを変える



昨夜は、ネットサーフィンをして3時、それからいつもの長めの入浴をして寝たのが朝方4時。8時過ぎに目覚ましで起きたがそれからまた寝てしまった。外は冷たい雨音。
昼頃あわてて外来へ行き、採血を済ませた。腫瘍マーカ、CA19-9とCEAが検査項目に入っているのを確認した。白血球・血小板は大丈夫だろうか、少し気になる。

朝食禁だったので、近くで昼食(そば)を済ませて職場へ。午後からいくつもの会議が入っており、席に落ち着く間もなく、結局、すべて終了したのは夜9時。10時のバスに間に合い、電車に乗って最寄り駅について、11時少し前、近くの「めし屋」で夕飯を済ませた。タクシーで帰宅し、お茶でも飲みながら新聞読みといきたいが、このブログを始めたのでまずはPCに向かった。

退院してから、ライフスタイルを変えようと努力している。
免疫療法関連の書物を読むと、1)食生活、2)睡眠(夜11時前には寝る)、3)ストレスをためない、4)副交感神経優位の生活、etc.と続く。

食生活。今日は2食とも外食だったので×だが、一番改まった部分だ。
それまでの生活はひどかった。朝はコーヒーにパン、昼は職場で仕出し弁当(400円で安いのが取り得)、夜はお菓子やありあわせのパン、または今夜のように外食。カップ麺やスナック菓子も多かった。
数年ぶりに電気釜を取り出し、ご飯を炊いて食べている。炊き立てのご飯の美味しいこと。野菜たっぷりの味噌汁に、漬物・佃煮、デパ地下の惣菜で、自分で用意する食事がこんなに美味しいのかと、入院中の苦痛だった食事を思い出す。数日前からは玄米食にも挑戦し、厳密な菜食主義は無理だが、野菜穀物中心の食生活に変わった。まったく苦痛ではない。

難しいのが、就寝と起床時間。朝寝坊の夜型で、興に乗れば4時5時まで起きて平気だった。仕事の日は3-4時間寝て、睡眠不足のまま1日を過ごしていた。
入院中は、毎晩、睡眠導入剤(マイスリー10mg、それが効かなくなってからはレンドルミン)の世話になり、6-7時間きちんと寝ていた。退院後、不思議と眠剤が不要になった。
早寝早起きに変えたいのだが、これが本当に難しい。
就寝前に、1時間ちょっと入浴。12時前に寝たいのだが、新聞も読みたいしTVのニュースも見たい。帰宅が8時頃ならなんとかなるが、今夜のように11時過ぎだと寝るのは2時か3時。

まず当面の目標、12時前に寝ること。週のうち4日できたら良しとしよう。
posted by 萩 at 00:42| 大阪 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記